dorian

2019年の始まりに気づいた30年間の私と家族

親孝行をしたいと思って生きている。父や母には長生きしてほしいし、苦労や心配をかけたくない。

最近、姉のことがどうも苦手になってしまい、一緒に居たくないし会いたくないし連絡も取りたくないとまで思っていた。でも姉のことが嫌いなわけではなくて、姉の言動や性格を見ていられないからなんだと思う。私が自分自身の嫌だと思っている部分を、姉を見ていると手に取るようにわかるから。姉を見ていると自分の嫌な部分ばかりが見えてきてしまう。

私はなぜ姉が苦手なのか考えた。とにかくイラっとすることや、残念だなと思うことをする。それは、すべてにおいてとにかくネガティブで、人生を諦めてしまっていること。姉は「こういうものだから仕方ない」とか「どうせできるわけない」とか、誰に言われたかもわからないけど、すべての事象を自分で考えたり行動したりする前に諦める。本当にそうなのか確かめたり、それを覆そうと努力したりなんて以ての外。

この年末年始だけでもたくさんある。混雑する東京駅の新幹線のホーム。車両故障で立ち往生の中、わたしは何が何でも次の電車に乗ってやる、という気持ちていた。だから電車のドアが開いた瞬間に走って乗り込み、座ることもできた。だけど姉は、いつ電車に乗れるかわからない、仕方ない、という諦めしかしていなかったせいで母に「何時に乗れるかわからない」と連絡をしてしまい母が一度自宅に帰ってしまった。私はそれを聞いて、なんでそんなことをするのかわけがわからなかった。そんな母を待たせないためにも、何が何でも電車に乗ろうと言う気にならないのが理解できなかった。そんな諦めしかしていないせいで、彼女は電車のドアが開いでも他の客に飲み込まれて、発車ギリギリでようやく乗り込み90分長野に着くまで立っていた。それをまた、ネガティブなトーンでのちに私に話してくるのもきつかった。もっと明るく「けいはよかったねー!!私はだめだったよ〜」くらいのテンションでいてくれたらこちらも「席変わってあげればよかったね」とか言えるんだけど。

それから姉は、事なかれ主義なので適当にその場を良さげにやりすごす。「何か言っているようで何も言っていない」を繰り返す。3人でおじいちゃんとおばあちゃんに会いに行った時、私はおじいちゃんおばあちゃんがどうしたら喜んでくれるかを考えたし、そうしたいと思っていた。いわゆる「年寄り扱い」みたいなことはしたくなかったから、私が普段会社の人や友達とはなすときと同じように「今年は雪が少ないね」とか「この服かっこいいね、写真撮らせて」とか言って写真を撮ってインスタにあげたりしていた。姉は、うんうんそうだね、あはは、そうなのかな?そうだよね〜みたいなことばかりを笑顔で小さい声で言っているだけで、身のある話は一つもしていなかった。完全に人見知っているし年寄り扱いしている。口調も他人行儀で、寄り添っているように見せて何も実態のない無駄な時間だった。それでも、孫の顔を見れたということだけできっと2人は喜んでくれると思うけど、せっかく久々に会いにいってこの年までお年玉をもらうなら、気の利いた話くらいできないものか。

少し前まで一緒に住んでいた時は本当に地獄だった。本人や家族には言えないけど、本当に辛かった。疲れて帰ってきてまだ家で仕事をしたいのに電気を消して寝られていたり、せっかくの休みで1人でゆっくりしたいのに家にいつまでもいたり。気を使っているつもりだったけど、いびきもうるさいし、とにかく自立しようとかいう気が、私がでてけと言うまで起きなかったことが本当に不思議でならない。実家に帰ると言っていたのに、結局東京に残っているのもわけがわからない。そういうふうに、彼女はいつだって自分で何かを選択してこなかった。ぜんぶ他人任せ。地元の大学への進学、地元の飲食店で就職、彼氏と同棲解消になり実家に帰り、私が招いて東京にきて、私と暮らすこと約7年。彼氏と同棲する理由で出ていったのに、別れたらまたわたしの家に転がり込んできて、私がでてけと言うまで34歳のくせに自立をしようとしない。お礼も掃除もなく出て行った。きわめつけは、不動産屋になぜ家を探しているのか訪ねられたときに「妹が仕事を家でやるので」と答えたと言うやばさ。それがなかったら自立しなかったのか、という本当に人生全てネガティブで諦めで自分の意思ではなにも決められない姉。悪い人ではないけど、一緒にいるのは本当に辛い。

姉がそうなってしまったことを考えてみた。

父は頑固で主張が強く、テレビを見ては文句ばかり、母の料理には文句ばかり、とにかく文句ばかり口走っていて、しかも大きな声を出したり手をあげたりすることもあった。小さい時は頭を叩かれたり、外に出されたこともあった。父が怖かったしすごく苦手で、いつもビクビクしていた。それは私も姉も同じだったけど、姉は私と違って、表面的には父の前でいい子にしていた。私はしなかったしできなかった。食卓で父が声をあげたりした食卓で、母は止めに入っていたし、後から慰めてくれた。でも、父の力に勝つことはできなかったし私と姉を守り抜くこともできなかった。母も、父のことを諦めていたから。その場はやりすごして落ち着かせて、後から慰めてくれる。そこで私たちは、もう父のこういう状況を帰ることはできなくて、諦めるしかない。と認識されていたように思う。とにかく荒立てないようにすること、荒立ってしまったら大きな声で怒鳴られても泣かないように我慢して謝るしか選択肢はないということ。家庭状況はそんな状態で高校生になり、姉が大学進学で家を出たので、家には父と母と私になった。そのころには父とコミュニケーションもうまくとれなかったし、食卓に会話もなかった。父もその頃にはもう何も言わなくなっていた。高2のころ母が仕事を変え、週に一度は夜勤となり、父と2人で夕食をとらなければならないことがあった。本当の地獄だった。母が仕事を変えたのも、別居して家を出ていくためだった。そのころ母に家を出たいと思っているけど、あなたはどうしたい?と聞かれた。すっごく困ったけど、この状態で父と3人暮らしは本当に限界だったので、お母さんが出て行きたいなら出て行けばいい、私はついていくと答えた。そんな夫婦の問題とか家庭の嫌な話をされたくなかった。中学では明るかった性格が、高校では暗くなっていた。ここ最近まで、母が家を出たのは、私の責任だと感じていた。私が2人の間をうまくつなぎとめられなかったせいだと感じていた。たまに帰って切る姉はニコニコいい子にしているから、父も母も嬉しそうだった。私にはそれができなかった。とにかく家庭の状況がつらくて部屋に閉じこもっていた。

 

私は大学に行きたかった。なぜ大学進学を選ばなかったのか考えてみる。高校はまずまずの進学校だったから、頑張れば行けたわけだ。そもそも勉強ができなかったしそんなに好きではなかったという前提はありつつ、大学進学は夢のまた夢という印象があった。うちはあまりお金のある家ではなかったし、両親とも大学を出ていない。姉も地元の短大だった。母に、東京の短大に行きたいと話した時にひつこくなんども言われたのが「奨学金は自分でずっと返していくんだよ。それでもいくの?」だった。応援はしてもらえなかった。状況的にそりゃそうだとも思うけど、なんでも現実的に手狭なところで終わる人生を、この両親の元に生まれたからにはそうならざるを得なかった。両親も地元でてきとうに就職して結婚すると思っていただろう。まさか娘が、東京の花形のオフィスで業界的な仕事をするなんて思わず育てたんだと思う。大学に行っていないくせに、有名大学出身者の中で働いているからこそよけいに、大学に行きたかったし、こう言う人たちともっと早く出会いたかったと思う。そうしたらこの劣等感はなかったかもしれない。

 

私も姉も家庭事情ではすごく苦労した。状況としては私はいろいろを目の当たりにしていたので辛かったし、今思えば思春期を悲しい家庭で過ごしたことは大人になてからのいろいろに影響しているとも思う。でも私は東京に出て1人になって、自分がやりたいと思うこととか自分が正しいと思うこととか好きなことに気づくことができた。姉は多分、それができなかった。だから今もこの状態なんだと思う。だから姉を見ていると、使った頃を思い出すし、なんでこうなっちゃったんだろうと親を責めたくもなる。

 

今は正直、ここからポジティブな話にできる気がしていない。思春期と今の私のリンクを考えて見えてきた部分。目を背けずにお風呂の中で反芻して、こうしてうブログに書いたことは初めてだった。自分の嫌だった部分に向き合えたし、考えがまとまったかもしれない。